西田幾多郎と"rain drops falling on flowers"
小さなつながりを感じ、慌ててこれを書いている。
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rain drops
rain drops falling on flowers
all the taste of the water
raindrops - jad fair , tenniscoats & norman blake
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西田の本で読んだのだ。詳細な文章は思い出せないし、図書館で借りた本だったから原本も手元にない。確認できない。
だから記憶をたどりながら書く。
西田は鈴木大拙の仲介で禅に接続した。禅の思想は the objectless concentration of mind (対象物の無い心の集中状態)を目指す。僕は禅を組んだことがある。そこで感じたあの感じ、そのことを言っている。説明は難しい。
花がある。
雨が降る。
雫が花弁に触れる。
それを見ている。
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その時に起きていることを、なんと説明したらいいだろう?
私、は花を、そして雨粒を、そして雨粒が花に触れるの、見ている。
私は花の質感を知っている。雨粒の質感も知っている。
花が雨粒をどう感じるのか、それがわかる。
雨粒が花をどう感じるのか、それがわかる。
私は花に触れる雨粒を見ながら、花でありながら雨粒でもある、とは言えないか。
西田はそのことを言っていたんだ。
うまく思い出せないけど。
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千の花に1億の雨が降るとき、
それを見るということは、
千の花が1億の雨粒を感じるのと同時に、
僕も1億の雨粒を感じる。
これが物を見るということ、多分。
模様のないチェス盤
ここにチェス盤がある。
ここにはチェス盤と君と僕しかいない。
プレイヤーは君と僕だ。
チェスにはルールがある。
僕たちはまずそのルールを学ぶ。
ルールを学ぶにつれ、僕たちはチェスを打てるようになる。
そしてゲームを繰り返すにつれ、僕たちは次第に上手になる。
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僕たちがチェスを打ち始めて長い時が流れた。
いつしかチェス盤の白と黒は擦り切れ、その境目がわからなくなった。
チェス盤の上で駒たちが右往左往する。
僕たちはもうこれまでのルールではチェスをすることができない。
そこで僕たちは新しいゲームを思いついた。
チェスの持ち駒をそれぞれ空に投げて、より多くの落ちてくる駒をキャッチできた方が勝ちだ。
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僕たちの世界には見えないフレームがある。
僕は平成という時代に日本という国に生まれ育った。
この時代と国には特有のルールがある。
この国の台地には白と黒の模様さえある。
この、生まれ育つ過程で知らぬ間にインストールしていたルールにまず気づくこと。
そしてそれを遠くから眺めること。
さらにそこから別のルールに目を移すこと。
時代と場所を移動して、自分がこれまで踊っていた踊りが、数あるジャンルの中のひとつでしかないと気づくこと。
これが、哲学にできることのうちのひとつ。
はじめに
母は言った。
「そんなことばかり考えていると、頭のおかしな人になっちゃうよ」
僕が小学校5年生の頃のことだ。
「人って死んだらどうなるの?」と尋ねた、まだ幼かった僕に対して、母はそう答えたのだった。
人は死んだらどうなるのか。
不思議で仕方なかった。
その頃の僕にとって最も差し迫った問題だった。
生まれる前のことを考えようとしても想像できない。
天国や地獄は信じられない。
生まれ変わりもどうやらあり得なさそうだ。
だとしたら、いったいどうなるんだろう?
女の子にモテることや、ソフトボールの試合に勝つことや、テストで良い成績を取ることも大事だった。
でもその時の僕には、この難解で不思議な問題に何かしらの答えを出すことこそが、一番重要に思われた。
そんな風にして芽生えた僕の、はじめての大きな問いは、母の一言で摘まれてしまったわけだった。
「そっか、変な人になっちゃうならやめとこう」
それからの僕は以前と同じように、女の子にモテることや、ソフトボールの試合に勝つことや、テストで良い成績を取ることに精を出した。
それから10年の歳月を要した。
僕がひた隠しにしてきた、頭の中だけの秘密の世界を、
あけっぴろげに議論していた人々がいたことを、
その流れが過去から現在まで連綿とつながっていることを、
さらに言うと学問にまでなっているということを、知るまでに。
この世界ではその学問のことを、
「哲学」と呼んだ。